新田神社の由来

千古の緑を湛える神亀山


新田神社は神亀山(しんきさん)という亀の形をした小高い山の上にあります。まつられている神様は天皇様のご先祖にあたるニニギノミコト様を中心として、ミコト様のご家族の神様、食物の神様、山の神様などたくさんの神様がおられます。

古い言い伝えによりますと、遠い神代の昔、高天原(たかまのはら)にいらっしゃいました太陽の神様アマテラス大神様が孫にあたるニニギノミコト様に私たちの住んでいる地上の世界を治めるようにお命じになりました。その時に稲穂をいっしょにお持ちしてお米をつくるようにおっしゃいました。『斎庭稲穂の神勅(ゆにわのいなほのしんちょく)』といいます。そこでニニギノミコト様はたくさんの神様をおつれになり今の鹿児島県の霧島にあります高千穂(たかちほ)峯におりられました。『天孫降臨(てんそんこうりん)』

そこではじめてお米をお作りになり、続いて同じく今の鹿児島県の南さつま市にあたる笠狭宮(かささのみや)にうつられ、山の神様の娘であり大変美しいコノハナサクヤヒメ様と結婚されてその後、海路東シナ海を北上されて川内の地にこられました。川内にお着きになられたニニギノミコト様は、この地に立派な「千台(うてな)」すなわち高殿を築いてお住まいになりました。川内(せんだい)の名はこの「千台」からきています。

やがてニニギノミコト様はおなくなりになられて、お墓がつくられました。これが今の「可愛山陵(えのみささぎ)」です。そしてそのニニギノミコト様をおまつりするようになったのが新田神社のはじまりといわれています。もともとは社殿がなくお山そのものが神社であったとも伝えられ、新田神社の「新田」という名前には、ニニギノミコト様が川内の地に川内川から水を引いて新しく田んぼをおつくりになったという意味がこめられています。新田神社の名前が古文書ではじめてでてくるのは平安時代で、当時は「新田宮」と称していました。このころには薩摩国(さつまのくに)の守り神様として朝廷からも深い信仰をうけていました。

今から八百年程前、承安三年に火災があり、それまでお山の中腹にあった社殿が焼け失せてしまいましたが、この時も朝廷や幕府に伺いをたてまして現在の山頂に再興されました。島津氏が薩摩国に封じられましてからは歴代藩主の崇敬は殊に厚く、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿のもととなるものが造られました。

明治時代にはいりましてからは、皇室の御崇敬を賜り、明治十八年に国幣中社となり、大正九年に昭和天皇様が皇太子の時御参拝いただきましてより皇族の方の参拝が九度におよんでいます。



えのやまのくすのたいじゅのみきなかば
可愛の山の樟の大樹の幹半ば
うつろとなれどひろきかげかな
うつろとなれど広き蔭かな

与謝野 寛(鉄幹)


御神徳

  • 開運招福
  • 五穀豊穣
  • 安産守護
  • 交通安全

御祭神

御祭神

本祀一座

天津日高彦火瓊瓊杵尊

(あまつひだかひこほのににぎのみこと)


配祀二座

天照皇大御神

(あまてらすすめおおみかみ)

正哉吾勝々速日天忍穂耳尊

(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)


神統譜

天照大神-天忍穂耳尊-瓊瓊杵尊-
彦火火出見尊―鸕
鷀草葺不合尊-神武天皇